憲法改正、そもそもの誤り④消えた「戦力不保持」と「交戦権」
【9条 戦争の放棄】
≪憲法≫
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
解説:戦力とは軍隊のこと。交戦権とは、国際法上、戦争をしている国に認められている権利であり、敵国の兵士を殺傷する、軍事施設を攻撃破壊する、船舶を拿捕するなどがある。日本はこれらを持たない、とした。
<草案>
①日本国民は・・国権の発動としての戦争を放棄し、武力により威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。②前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
9条の2 ①我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。・・
解説:9条から、戦力の不保持と交戦権は認めないという部分が削除された。軍隊及び交戦権は持てることになる。さらに、国防軍の保持を謳う9条の2を、9条と10条の間に新たにつくる。これにより自衛権が行使でき、交戦することもできる。日本は国際紛争を解決する手段として、武力行使しないと言ってきたがそれを放棄し、自衛権のためであれば、武力行使をする。
9条の解釈について、神奈川大学・金子匡良准教授はさらに次のように話されました。
9条では戦争、武力威嚇、武力行使を放棄しているが、現状、何もできないということではない。この条文は、1928年、国際社会で結ばれた「パリ不戦条約」の文言とほぼ同じであり、ここには、各国は「侵略戦争をしない」と明記された。その後できた日本国憲法9条も同じと解釈され、「侵略のための武力行使はしない、自衛のためであればできなくはない」となった。そこで、政府は、1項で個別的自衛権が否定されていない以上、2項でもそれを否定していないという前提に立ち、ここで言うところの戦力では、自衛のための戦力は持てる、とした。自衛隊は戦力ではなく自衛力である、という解釈をしてきた。
現実的なこととして、これについての反論も理解できるところだが、概念の隙間を埋めるのが法解釈であり、自衛を禁止していない以上、自衛のための実力は自衛力として持てる。交戦権は否定していることから戦争はできないが、武力行使は自衛目的であればできる。これは、言葉の意味をたがえる解釈にはなってはおらず、あいまいな部分を、そう解釈できる、としてきた。
しかし、学説はこれを否定し、禁止しているのは侵略戦争だけではなく、自衛のための実力も含まれる、としてきた。なぜなら、自衛のためではない戦力はありえないからである。侵略に使った国もあるが、軍隊は自国を守るためにあるのであり、ここで言う戦力は、侵略目的のものであって、それ以下の自衛力は持てる、とするのは理屈として通らない、との学説が通説だった。個別的自衛権そのものは学説も否定していないが、それを行使する手段、つまり、自衛隊を持てるか持てないかということでは意見が分かれてきた。そして、憲法学会の中では、やはり政府のような見解しかとれないのではないか、との考えが90年代から高まってきた。このきっかけを作ったのが小林節慶應大学名誉教授であり、学会に絶大な影響を与えた長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授である。
国家は国民を守るためにある。その国家が軍隊を持たず、侵略的行為を受けた場合、国家は国民に対し、「軍隊を持てないので殺されてくれ」と言うのと同じ状況になる。それは国家として言ってはならないことであり、憲法に書けないことである。したがって、9条が、あらゆる武力を持たない、行使しない、と言っていると解釈することは、国家や憲法の解釈としてそもそもありえないことである。そこで、やはり政府の解釈しかない、と考えるべきである―。現在の世界情勢を見た時、この長谷部説が有力な考え方となり、憲法学会では今日「自衛権は憲法違反ではない」が通説となっている。