憲法改正、そもそもの誤り③人権尊重の後退
これまで憲法が改正されなかったことについて、安倍首相は、2006年、著書「美しい国へ」(文春新書)の中で次のように述べています。
「・・損得が価値判断の重要な基準となり、損得を超える価値、たとえば家族の絆や、生まれ育った地域への愛着、国に対する想いが、軽視されるようになってしまったのである。」
「そもそも、憲法は、家族や地域を愛せなど、国民の義務を書くものではなく、国の義務を書きこむもの。憲法は国民を放し飼いにしがち、との指摘も含め、憲法への曲解、無理解、侮蔑の表れであり、国会議員である自らが憲法に拘束されているとの意識が薄い。」 東京・生活者ネットワークの国政フォーラムで講演された神奈川大学准教授・金子匡良さんはこう指摘されました。そして、草案のどこが問題なのかを解説。そのときの「自民党憲法草案に見る立憲主義の危機~現行憲法との比較」をご紹介します。(本文は抜粋)
【前文】
≪憲法≫
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。・・
<草案>日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。・・日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。・・
解説:草案は、現行憲法と違い、誰が誰をどういう原理に基づいて統治するのかが不明である。現在は、国民の総意に基づく象徴という地位が国民によって与えられている天皇についても「戴く」とした。国民主権、三権分立という言葉はあるが、どういうサイクルによって国が運営されるのかも不明。国家権力の正統性の源が不明確なのである。さらに、憲法は、日本国民の人権が尊重されるものであるが、その人権尊重と同じ価値を持って、和、家族、社会、助け合いが同列に置かれていることも問題である。法学の世界では、同じ言葉は同じ意味、違う言葉は違う意味に解す。今ある言葉を変えるということは、違う意味を発揮させたいということであり、これを踏まえれば、本来の価値構造を壊すということである。
この草案の対比として、金子先生はスイス連邦憲法前文を紹介されました。スイスでは、1999年4月、国民投票を経て憲法が改正されましたが、1874年から施行されていた憲法の本質的部分を変えることなく、時代に対応させることを意図しての改正であったと言われています。
≪スイス連邦憲法前文≫
・・自らの自由を用いる者のみが自由であり、国民の強さは弱者の幸福感によって測られるということを確信して、この憲法を制定する。
解説:自由でいたいのであればその自由を使え。憲法で守られたいのであれば憲法を使え。法によって権力者を支配したいのであれば法の支配を実践せよ。国家、国民の強さは何で測るべきか。それは経済力でも軍事力でもない。そこに住んでいる国民の中で、弱い立場にある人たちが、どれだけ幸せであるか、この国に生まれてよかったと思えるか。そのことによって国民の強さは測られるべきであり、これをもって憲法を制定する。