憲法改正、そもそもの誤り②立憲主義の危機

自民党は結党以来、日本国憲法を「押しつけ憲法」「占領憲法」として非難し、「憲法の自主的改正」を党の使命としてきました。特に、前文は翻訳調の悪文との主張を繰り返してきました。検討過程についての報告書は、1956年(昭和31年)4月「中間報告~憲法改正の必要性と問題点」、1972年(昭和43年)6月「憲法改正大綱草案(試案)~憲法改正の必要とその方向」、1982年(昭和53年)8月「日本国憲法総括中間報告」と3回出されています。

これを踏まえ、小泉政権時の2005年10月、「新憲法草案」が自由民主党新憲法制定推進本部新憲法起草委員会により起草され、11月の立党50年記念党大会で正式に発表されました。

懸案の前文は、当初「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴として古より戴き、和を尊び…」で始まっていました。「国を愛する国民の努力」という文言も。この原案は、前文小委員長・中曽根康弘氏の思い入れにより筆がとられた、とされています。しかし、これが、最終の起草委員会全体会議に提出されたときには、全く別のものに差し替えられていました。

新たな前文の出だしは、「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」。結びは「日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす」。

「国を愛する」という表現も、「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」に変えられ、「愛国心」の過度の強調による反発を回避する動きがとられました。

そこには、郵政民営化をめぐる党内の権力闘争がありました。郵政民営化法案に参議院自民党が抵抗、その賛否を決するキーパーソンであった中曽根氏の長男・弘文氏の反対が決定的影響を与え、郵政法案が大差で否決された結果、「中曽根前文案」は不採用になったといいます。

新憲法起草委員会事務局次長の舛添要一氏は、「和を尊び」の削除を要求。郵政民営化実現のため「和」より「戦い」を選んだ小泉首相への皮肉に聞こえかねないことが理由とされ、同委員会事務総長を務めた与謝野馨氏とともに、新たな前文案に取り組んだといいます。「新憲法草案」を決める全体会議のわずか10日前のこのできごとは、当時、主要新聞各紙が大々的かつ詳細に伝えています。与謝野、舛添両氏はいずれものちに自民党を離党。ちなみに、起草委員長を務め、「新憲法草案」を発表したのは森喜朗元総理大臣でした。

そして、自民党は、占領体制から脱却し、日本を主権国家にふさわしい国にするとして、日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約から60年になる2012年4月、新たな日本にふさわしいとして「日本国憲法改正草案」を発表したのです。

「日本国憲法改正草案」は、前文から補則まで現行憲法の全ての条項を見直し、全体で11章、110カ条(現行憲法は10章及び第11章の補則で103カ条)の構成。自民党は、この憲法改正草案が国民投票によって成立すれば、戦後初めての憲法改正であり、まさに日本国民自らの手でつくった真の自主憲法になる、としています。

草案は、前文の全てを書き換え、日本の歴史や文化、05年に一度は削除した「和を尊び家族や社会が互いに助け合って国家が成り立つ」ことまで復活させています。

主要な改正点については、国旗・国歌の規定、自衛権の明記や緊急事態条項の新設、家族の尊重、環境保全の責務、財政の健全性の確保、憲法改正発議要件の緩和など。これらは時代の要請であり、新たな課題に対応した憲法改正草案だと。

しかし、この草案は、安保法制の議論の過程においても、法的安定性を軽視する発言をするなど物議を醸した礒崎陽輔首相補佐官が中心となって作成したものと言われ、専門家の直接的な関与もない、との指摘も。そのためか、立憲主義に反し、人権の保障が後退するなど、致命的な欠陥があるなど多くの問題があるとされています。