憲法改正、そもそもの誤り①法に支配されようとしない権力者

懸念していた通り、安倍首相が改憲に向けた姿勢を強く打ち出し始めています。

東京・生活者ネットワークでは、これまでの憲法解釈を閣議決定のみで変更し、集団的自衛権を容認したことについて、国の姿を大きく揺るがす重大局面ととらえ、昨年10月、国政フォーラムを開催。神奈川大学准教授・金子匡良さんを講師に、改めて学習の機会を持ちました。

まず、おさらいしたのは、憲法に書かれている、「国家権力を縛る三大内容とその関係性」について。

三大内容とは、①人権の保障②主要な国家機関の組織と権限③民主主義に基づく国家運営。そして、立憲主義の目的とは、①の「人権の保障」であり、②の「国家機関の組織と権限」と③の「民主主義に基づく国家運営」は、その目的に奉仕する手段であるということ。現政権の憲法改正論議は、手段が目的になってしまいがちですが、本来は「人権保障のために必要かどうか」ということのもとで、憲法改正論議がなされなければなりません。

そして、「立憲主義の価値構造とその序列」について。

  1. 人間の尊厳の原理・・最も基本的な価値。国家よりも人間に価値がある
  2. 個人の尊重の原理・・人類という集団よりも、一人ひとりの人間、個人に価値がある
  3. 人権の尊重の原理・・権利・自由・平等を人権という形で尊重する

この価値の構造の上に憲法という屋根が載っているのであり、改正については、この3つのために憲法を改正するという議論でなければならず、本来の憲法の価値の源とは関係ないところでの憲法改正論議にしてはなりません。(「人間の尊厳の原理」は表面には出ないが礎石であり、「個人の尊重の原理」を謳うことの土台には「人間の尊厳の原理」があり、当然保障されていると解釈される。)

これを表したのが憲法13条。

13条 すべて国民は、個人として尊重される生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、 公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする。

まず「個人の尊重の原理」をいちばんに宣言。そして、個人を尊重するとは、その人の生命・自由・幸福追求を最大限尊重することであると定義し、国家を形成することの目的を謳っています。最大の尊重とは、これ以上の尊重するものはない、ということであり、実質的な立憲主義の考え方です。

さらに、「立憲主義を支えるものは法の支配」ということ

法の支配とは、何人も法以外のものには支配されないという原理です。一方、人の支配とは、国家権力者が好きなように法をつくり、これを守れということ。権力者も含め、どんな人も法によって支配されるという構造は、特別な法として憲法をつくり、憲法の範囲内において、国家権力者は国民を支配していいとする立憲主義と近似しています。立憲主義と法の支配という概念は、兄弟・双子のように成長・発展してきたといいます。

ドイツの憲法学者コンラート・ヘッセは、法の支配を実効たらしめる条件として、権力者の側は「法に支配されようという意思と態度」、国民の側は「法に支配されようとしない権力者を排除する意思と態度」を持つことを上げ、この2つを持った時に、初めて法は真正なものになると指摘しています。

昨年7月の閣議決定による集団的自衛権の行使容認について、ここで問題にすべきは、軍事論から見た必要性ではなく、主権者である国民の了承もなく、政権が憲法の読み方を変え、内容を変えてしまったということ。権力者が「武力行使の放棄を放棄する」と言うこと自体が立憲主義の否定です。何をするかの前に、誰が発するか。「誰が」こそが問われます。

統治の客体である国民が憲法を制定し、国家権力者を拘束する「国民主権型」の実質的立憲主義を安倍首相が壊しています。このそもそもの大いなる誤りに対し、私たちの中に憲法をしっかりと根付かせ、市民が憲法を実践することで、立憲主義を実現させていく―。来る参議院議員選挙をその大きなチャンスにしたいものです。